1951年の入管法制定時の外国人政策

坂中提案

出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号。以下「入管法」という。)は、連合国軍の占領下の1951年11月1日、「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づく政令として施行された。そして、1952年4月28日、「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律」の規定により法律としての効力が付与され、今日に至っている。

入管法は、在日連合国軍総司令部(GHQ)が招聘した米国移民法の専門家がその立案に深く関与したことから、「米国移民及び国籍法」(1952年施行)の影響を強く受けている。このことは、たとえば、次の点で顕著である。

 ①法務大臣(当時の米国は司法長官)が出入国管理の最高責任者である。

 ②外国人の入国及び在留管理の基本制度として米国と同じ在留資格制度を採用している。

 ③上陸拒否事由及び退去強制事由の大半がうり二つである。

 ④上陸手続及び退去強制手続における三審制の採用等行政処分を行う前の事前手続を詳 細に規定している。

日本の外国人の受け入れ範囲を定めた在留資格も、米国政府の意向が反映されている。米国が主導権を握る軍事占領が終了し、出入国管理の権限が日本国の手に戻れば、米国人も出入国管理の対象となることを念頭に入れて、米国人が日本に進出しあるいは残るために必要な在留資格を作ったという一面もあったと推測される。

たとえば、当時の国際社会の状況下において米国人が主な入国対象者であったと考えられる「貿易家・事業家・投資家」「宗教家」「高度技術提供者」などの在留資格が設けられ、それらの在留資格に対応する在留期間(更新が可能)は最長の「3年」とされた。

その一方で、「日本人の子として出生した者」を対象とする在留資格が設けられていなかった。また、日本で出生した外国人、日本国籍を離脱して外国人となった者等の在留資格の取得手続も定められていなかった。以上の事情については、米国が出生地主義の国、国籍離脱を原則として認めない国であったことが関係していると考えられる。

このようにマッカーサー総司令部の置き土産という性格を持つ在留資格であったが、外国人を幅広く受け入れるもの、人の国際国流の拡大に十分対応できるものになっており、1950年代初頭の国際社会の水準からすると画期的な外国人受け入れ制度を定めたものと言える。

すなわち、投資経営活動の自由を保障し、外国から貿易家、事業経営者を受け入れる「貿易家・事業家・投資家」の在留資格、信教・布教の自由を保障し、外国の宗教団体から派遣される宣教師、牧師等を受け入れる「宗教家」の在留資格、報道の自由を保障し、外国の報道機関から派遣される新聞記者、報道カメラマンを受け入れる「報道員」の在留資格、外国から日本産業の復興に役立つ高度人材を受け入れる「高度技術提供者」および「熟練技能労働者」の在留資格が定められていた。また、社会経済情勢の変化に臨機に対応して外国人を受け入れられるようにするための「法務大臣が特に在留を認める者」の在留資格も用意されていた。

仮に、1951年の時点で日本政府が自主的に外国人受け入れ制度を立案したとすれば、これほど外国人に開かれた入管制度はできなかったであろう。

付言すると、「本邦で永住しようとする者」の在留資格が定められており、上陸手続において外国人が「永住者」の在留資格を取得する道が開かれていた。これも移民受入国である米国の影響を受けた規定である。ただし、日本は移民受入国でないことから、この手続を適用し、「永住者」の在留資格を決定し外国人の上陸を許可した例は皆無だった。

なお、この規定は、国情と運用実態に合わないという理由で、1990年の入管法の改正で削除された。

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