非難と罵倒の連続の人生に悔いなし

坂中提案

法務省入国管理局に勤務していた1977年に「今後の出入国管理行政のあり方について」(以下「坂中論文」と略称)という論文を発表した。その中の「在日朝鮮人の処遇」をテーマにした一篇で「在日朝鮮人が自ら進んで日本国籍を取りたいという気持ちになるような社会環境づくりに努めるべきだ」と提案した。

するとすぐに大きな反響があった。在日韓国・朝鮮人、民団や朝鮮総連などの民族団体、民族差別と闘うあまたの運動体、進歩的文化人、大学教授などから、「我々には朝鮮民主主義人民共和国という立派な祖国があるのに、帰国の道を閉ざすつもりか」「同化政策のいっそうの推進を打ち出したものだ」「文字通りの抑圧者の論理である」「冷酷な法務官僚」などという批判、抗議が殺到した。当時、活動が活発だった過激派からは、「打倒!坂中」のスロ-ガンを掲げたデモ行進の標的にされた。

批判の集中砲火を浴びてびっくり仰天したが、手に入った批判文、抗議文のたぐいは丹念に読んだ。実際、私に送られてきた「反坂中論文」のビラやパンフレットなどを含む印刷物はゆうに1000種類を超えていたのではないかと思う。

「カラスが鳴かない日があっても坂中論文が在日朝鮮人社会で話題にならない日はない」(ある在日朝鮮人研究者の言葉)という状況を呈していたようである。坂中論文が盛んに論評される時代が20年ほど続く。

1995年春、入国管理局入国在留課長として、それまでアンタッチャブルとされてきた興行入国者問題にメスを入れた。私は陣頭指揮をとって、1995年5月から翌96年3月まで、興行入国者の「出演先」であるバー、キャバレーなどへの実態調査を全国規模で実施した。

その結果、調査した444件のうち、実に93%にのぼる412件で資格外活動等の不法行為が確認された。この調査結果を受けて、興行ビザによる入国者の規制を強化した。

それは興行入国者の大幅減となってすぐに効き目が現れた。1994年に約9万人だった興行ビザによる入国者数が、翌年には5万9000人に減り、1996年には5万5000へとさらに減ったのである。

この規制措置に対して、芸能人の招聘者であるプロダクションや、ホステスとして使っていたバーやキャバレーなどの飲食店の経営者は猛烈に反発した。

背後に暴力装置を備えた巨大な業界であるだけに、脅しによる調査妨害に始まり、損害賠償請求や罷免請求といった法的措置、私への脅迫電話、個人攻撃、はたまた坂中は一週間以内に交通事故に遭うという警告など、手をかえ品をかえ、執拗に繰り返された。

業界の意を受けた政治家まで登場し、「君はいったい何をやっているのだ。お前みたいな頑固者の役人がいるから業界が迷惑するんだ。君は転勤したほうがいい」と圧力をかけてきた。もちろん私は政治家の介入で持論を変えることはなかった。

2005年に公務員生活を終えてフリーの身になり、現在は一般社団法人移民政策研究所の所長として、移民国家の創建に挑んでいる。これは「移民鎖国」という日本最大のタブーとの闘いである。移民国家構想が政治課題にのぼるようになると、反移民団体、排外主義者、国粋主義者らによる「1千万人の移民反対」「売国奴」などという坂中批判の大合唱がはじまるだろう。

何回も修羅場をくぐった経験から多くのことを学んだ。個人攻撃や誹謗中傷は正論を吐いた人間への感情的反撥と冷静に受け止める。袋だたきがおさまるまで耐える。非難と罵倒の連続に見舞われた人生に悔いはない。

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