老婦人は祖国の懐に抱かれて安らぎの時間を過ごしている

坂中提案

日本人妻たちは北朝鮮の正体を知ると、「まさかこんな国がこの世に存在するとは信じられない」というほどの衝撃を受けた。飢餓の常態化、現地住民による差別と排斥に加え、密告社会で言論の自由がないことがもたらす苦痛は想像を絶するものだった。

日本人妻たちは恋愛結婚で朝鮮人と結ばれ、夫に従って北朝鮮に渡った人たちである。しかし、最愛の夫は日本人妻を同伴したことの責任感にさいなまれ、若くして死ぬ人が多かったと聞いている。この世でただひとりの頼れる人を失った後の日本人妻の孤独の生涯は察するに余りある。

8年前に日本に帰ってきた日本人妻は、子供たちが幼少の時に夫が家を飛び出したので、家計を支えるため工場で働いていた。家族のうち一人は職場に行かないと配給がもらえないからだ。彼女は慣れない仕事に心痛が重なって、麻布を織る機械に片腕を巻き込まれる事故にあった。事故のことを聞いて戻って来た夫は間もなく肝臓病で亡くなる。

寡婦となった彼女のたったひとつの望みは日本に帰国することであった。その願いをかなえてあげたいと思った孫娘が、祖母の手を引いて国境の川を渡って日本に連れて来た。

帰国直後に会った時、老婦人は満面に笑みをたたえて、「40年間も日本語を話していませんのですっかり忘れました」とぽつりと一言漏らした。

数年前、その孫娘から「祖母は祖国の懐に抱かれて安らぎの時間を過ごしている」と聞いて安心した。

5月の日朝政府間合意で日本人妻の北朝鮮からの合法出国と日本への永住帰国の道が開かれた。日朝関係史におけるその歴史的意義はいくら強調してもしすぎることはないと考える。

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