移民政策研究所所長の18年

2005年8月。政府の国勢調査で日本が空前の人口減少期に入ることが明らかになるや、私は移民の受け入れが喫緊の課題になるという考えが自然に浮かんだ。そして人口減少社会における移民政策に関する提言作りを目ざし、民間の研究機関「外国人政策研究所」を創立した。さらに2009年4月。その組織体制を拡充した「一般社団法人移民政策研究所」を設立した。
移民政策研究所(Japan Immigration Policy Institute)は、移民に対する不当な差別または偏見の防止および根絶を図り、もって日本型多民族共生社会を創ることを目的として結成された一般社団法人である。この法人の掲げる目標は途方もなく大きいが、その研究体制は極めて脆弱である。坂中英徳以外にスタッフも研究員もいない。自宅が事務所を兼ねる。この組織は私の死とともに消滅する運命にある。
自分の能力の百倍の能力を必要とする大業と死闘を繰り広げていることは百も承知だ。人の数倍の努力を積み重ねれば日本の命を救う入り口にまで到達できるかもしれないという一縷の望みに残りの人生のすべてをかけようと決心した。さいわい移民政策研究の分野は私の独り舞台に終始した。自作自演で心のまま演じた。白紙に好きな絵を好きなように描いた。
国の命運のかかる国家的大事業に一人で乗り出し、「世界の中の日本のあるべき姿」を追い求めた。私の仕事をあたたかく見守ってくれた家族から「できもしない夢ばかり追いかけている」と言われたが、私は日本一の夢想家なのかもしれない。移民政策のことしか頭にない私は、移民社会の理想郷を創るため四六時中頭を回転させた。
移民政策研究所所長の18年の歩みを回想すると、規模雄大な国家ビジョンを打ち立てた著作が国民からも知的世界から政治家からも無視される状況がエンドレスで続く中、日本の新しい歴史をつくる責任を全うできるか一人で悩み、なにもかもほうり投げたい気持ちに落ち込む時もあった。するとすぐに人口崩壊の脅威にさらされている祖国を救うために移民立国の旗を死守しなければならないと自分で自分を励ました。その繰り返しの厳冬時代が続いた。
なぜか2013年の春に心境の変化が起きた。そうなった理由は分からない。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」という古武士の生き方に憧れる私の地金が出たのかもしれない。いずれにせよその時から日本の新しい未来を切り開くのは自分に課せられた天職という気持ちになった。移民政策研究のオーソリティの坂中英徳以外に誰がそれをやるのかという使命感も生まれた。
近年の私は、移民国家日本の創始者の立場から、100年先の世界のあるべき姿を視野に入れ、日本の精神文化の粋を集めた移民国家の青写真の作成に全力投球している。単刀直入に移民政策の核心を突く文章スタイルが身についた。10年前からパソコンが使えるようになり、知的生産力が飛躍的に向上した。筆力が全盛期を迎えた2022年。『移民国家日本は世界の頂点をめざす』『人類の救世主が立ち上がるとき』『被爆国日本は核戦争を絶対許さない』『核戦争勃発か人類共同体創成か』『ミスターイミグレーションの時代』など10冊の著作を出版した。いずれの作品も渾身の力を込めて書いた力作である。
最近にわかに一般社団法人移民政策研究所が内外の耳目を集めるようになった。大きな研究所と思っている方もおられるかもしれない。しかしその実体はというと、前述のとおり研究所とは名ばかりの、言ってみれば坂中英徳の個人商店のようなものだ。いつつぶれてもおかしくない小さな団体だ。
2005年3月31日に国家公務員を辞したとき、組織を企業し発展させる能力も人徳もない私は筆一本で勝負するしかないと思い立った。私は不器用な人間である。むろん頭脳明晰の切れ者というわけでもない。その時、好きなことだけをやり、嫌いなことは絶対しないと心に決めた。一点集中で論文執筆に専従した。それが脳みその活性化と、日本の移民政策を牽引する論文の大量生産につながった。
何が起きても不思議でないのが人生行路だ。私は主義主張を絶対曲げない頑固一徹だ。不撓不屈の精神力で自分が正しいと信じる道を真っすぐ突き進んだ。移民立国の日本を創建するため肝脳の全てを投入した。そして人の数倍の努力をした。気がつくと「人類共同体哲学の創始者」という人類の永遠の課題に挑む首座の立場に押し上げられていた。