移民政策史素描ーー在留資格の変遷を通して

坂中提案

(1)わが国は、戦前においては、人口の過密、急速な近代化による農村の疲弊と過剰労働力の存在などの事情を背景に、大量の人口を移民として海外に送り出す政策をとる一方でタイトル、永住を目的とする移民と、移民に結びつく可能性のある外国人労働者の入国を厳しく制限してきた。

戦後においても、長年、永住目的の外国人(移民)と外国人労働者の入国を原則として認めない政策をとってきた。

移民については、「出入国管理及び難民認定法」(昭和26年政令第319号。以下「入管法」という。)は外国人の上陸手続で「永住者」の在留資格を決定できる規定を設けていたが、入国管理局が入国に際し永住者の在留資格を与えることはなかった。

外国人労働者については、1967年に「雇用対策基本計画」が策定されたとき、その計画の前提として「外国人労働者の受け入れは行わない」という雇用対策の基本方針が閣議で了解され、以後その方針が1990年まで続く。

わたしは以下において、入管法に規定する「在留資格」の変遷を通して、移民政策史の素描を試みる。

入管法は、外国人が日本に入国して行う活動に着目し、日本が入国を認める外国人の活動類型としての在留資格を定めている。在留資格は、日本社会にとって好ましいと認める外国人の活動を法律で明示したもので、それに該当する活動に従事する外国人の入国が認められるという意味において日本の外国人政策を対外的に明らかにしたものである。

したがって、在留資格の改正の歴史をたどることによって、日本の入国管理政策(外国人受け入れ政策)の過去から現在までのおおよそのところが明らかになる。

幸いにもわたしは、1982年の入管法改正による在留資格の一部改正と、1990年の入管法の改正による在留資格制度の全面改正について、実務責任者として立法にかかわった。

特に、1990年の新しい在留資格制度は在留資格に係る上陸許可基準を公表するなど透明度の高い外国人受け入れ制度となっており、外国人の受け入れ範囲も外国人の入国在留手続も当時の世界の最高水準をいく入管制度を定めたと考えている。

(2)1951年の入管法制定時の在留資格

出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号。以下「入管法」という。)は、連合国軍の占領下の1951年11月1日、「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づく政令として施行された。そして、1952年4月28日、「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律」の規定により法律としての効力が付与され、今日に至っている。

入管法は、在日連合国軍総司令部(GHQ)が招聘した米国移民法の専門家がその立案に深く関与したことから、「米国移民及び国籍法」(1952年施行)の影響を強く受けている。このことは、たとえば、次の点で顕著である。

①法務大臣(当時の米国は司法長官)が出入国管理の最高責任者である。

②外国人の入国及び在留管理の基本制度として米国と同じ在留資格制度を採用している。

③上陸拒否事由及び退去強制事由の大半がうり二つである。

④上陸手続及び退去強制手続における三審制の採用等行政処分を行う前の事前手続を詳  細に規定している。

日本の外国人の受け入れ範囲を定めた在留資格も、米国政府の意向が反映されている。米国が主導権を握る軍事占領が終了し、出入国管理の権限が日本国の手に戻れば、米国人も出入国管理の対象となることを念頭に入れて、米国人が日本に進出しあるいは残るために必要な在留資格を作ったという一面もあったと推測される。

たとえば、当時の国際社会の状況下において米国人が主な入国対象者であったと考えられる「貿易家・事業家・投資家」「宗教家」「高度技術提供者」などの在留資格が設けられ、それらの在留資格に対応する在留期間(更新が可能)は最長の「3年」とされた。

その一方で、「日本人の子として出生した者」を対象とする在留資格が設けられていなかった。また、日本で出生した外国人、日本国籍を離脱して外国人となった者等の在留資格の取得手続も定められていなかった。以上の事情については、米国が出生地主義の国、国籍離脱を原則として認めない国であったことが関係していると考えられる。

このようにマッカーサー総司令部の置き土産という性格を持つ在留資格であったが、外国人を幅広く受け入れるもの、人の国際国流の拡大に十分対応できるものになっており、1950年代初頭の国際社会の水準からすると画期的な外国人受け入れ制度を定めたものと言える。

すなわち、投資経営活動の自由を保障し、外国から貿易家、事業経営者を受け入れる「貿易家・事業家・投資家」の在留資格、信教・布教の自由を保障し、外国の宗教団体から派遣される宣教師、牧師等を受け入れる「宗教家」の在留資格、報道の自由を保障し、外国の報道機関から派遣される新聞記者、報道カメラマンを受け入れる「報道員」の在留資格、外国から日本産業の復興に役立つ高度人材を受け入れる「高度技術提供者」および「熟練技能労働者」の在留資格が定められていた。また、社会経済情勢の変化に臨機に対応して外国人を受け入れられるようにするための「法務大臣が特に在留を認める者」の在留資格も用意されていた。

仮に、1951年の時点で日本政府が自主的に外国人受け入れ制度を立案したとすれば、これほど外国人に開かれた入管制度はできなかったであろう。

付言すると、「本邦で永住しようとする者」の在留資格が定められており、上陸手続において外国人が「永住者」の在留資格を取得する道が開かれていた。これも移民受け入れ国である米国の影響を受けた規定である。ただし、日本は移民受け入れ国でないことから、この手続を適用し、「永住者」の在留資格を決定して外国人の上陸を許可した例は皆無だった。

なお、この規定は、国情と運用実態に合わないという理由で、1990年の入管法の改正で削除された。

(2)1990年代の在留資格

 

1990年の改正前の在留資格は、1951年の入管法の制定以来、1982年に若干の手直しが行われたのみだったので、外国人の入国者数および在留形態が制定当時とは大きく変わった時代の要請に十分に対応できなくなっていた。

たとえば、日本社会の国際化が飛躍的に進み、入国する外国人が増加するとともに、その活動内容も多様化したが、在留資格に該当する活動として明示的に定められていない活動を行おうとする外国人の受け入れについては、そのつど個別に、「法務大臣が特に在留を認める者」という概括的な在留資格を付与して対応せざるを得なかった。

今後いっそう増えることが予想される専門知識・技術・技能を持つ外国人の入国について、法務大臣の自由裁量で在留資格を決定する仕組みでは、日本に入国できるかどうかが判然としないことから、外国人に不安感を抱かせるおそれがあった。

入管法の大黒柱の在留資格制度が以上のような深刻な問題状況にあったことに加え、専門職の外国人労働者の受け入れの拡大を求める世論の高まりなど外国人労働者問題への対応も迫られていた。

そこで1990年の入管法の改正により、人の国際交流の活発化に対応できる在留資格制度を確立するため、在留資格の種類と在留資格に該当する活動範囲の抜本的見直しを行うとともに、在留資格をもって在留する外国人の行うことができる活動をより明確に定めることにしたものである。

これまで「法務大臣が特に在留を認める者」の在留資格の弾力的運用で外国人の入国を認めてきた活動類型を中心に、「法律・会計業務」「医療」「研究」「教育」「人文知識・国際業務」「企業内転勤」「文化活動」などの在留資格を新たに設けたほか、「報道」「投資・経営」「技術」「留学」「興行」「技能」などの既存の在留資格についても、それぞれの在留資格に該当する活動範囲を広げ、外国人の受け入れ範囲の拡大を図った。

また、法律上の在留資格として、「日本人の配偶者」および「日本人の子として出生した者」を受け入れるための「日本人の配偶者等」の在留資格と、法務大臣が特別な理由を考慮して居住を認める外国人を受け入れるための「定住者」の在留資格を新設した。

その結果、日系ブラジル人など日本人移民の子孫が「日本人の配偶者等」あるいは「定住者」の在留資格を取得し、父母の国・祖父母の国である日本の土を踏むことができるようになった。

(3)1990年の入管法改正は移民国家への一里塚

実は、日系ブラジル人たちが「日本人の配偶者等」や「定住者」、あるいは「永住者」といった一般外国人がなかなか取得できない資格を手にすることができるのは、入管法に定める「在留資格」が関係しているのである。

そもそも入管法は、外国人が入国して行う活動内容に注目し、日本国が適当と認める外国人の活動類型、すなわち「在留資格」を定めている。少し、専門的な解説になるが、在留資格は、それに該当する活動を行う外国人の入国が認められるという意味において、日本の外国人受け入れ政策を対外的に明らかにしたものである。

「入管法」と呼ばれる法律ができたのは1951年のことである。この戦後まもなくできた基本法を軸として外国人の出入国管理が行われてきたのであるが、1982年に若干の手直しが施されただけの法律が、1980年代の後半まで続いていた。

そのころ、日本はまさにバブル経済の最盛期を迎えていた。日本を取り巻く内外の情勢は大きく変わり、とくに海外から押し寄せる人の流れのエネルギーが入管行政を直撃した。好景気に湧く経済界からも外国人労働者の導入を求める圧力が日増しに強まった。当然、このままでは直面する諸問題に法制面で対応できないことが誰の目にも明らかとなった。

1988年4月、私は法務省入国管理局で総括補佐官というポストにあったが、そんな私に、突然上司から、「入管法の在留資格はいまの時代に合わない。外国人労働者問題に対応するため在留資格の全面的な見直し案を作るように」との特命が下った。

当時、日本の労働力不足は深刻で、外国人労働力の受け入れを求める催促が産業界から入管に向けられていた。

これを受けて、「単純労働者はまだしも、専門知識・技術を有する外国人に対しては門戸を開く」という基本方針が法務省内で固まったのだ。

諸情勢の変化への迅速な対応を迫られたという事情はあったが、「とにかく急いでやるように」と上司が設定した期限は、たったの2週間だった。

だが、いかに喫緊の課題だと言われても、まったくのゼロからのスタートであれば、私もそれを簡単に引き受けなかったにちがいない。

種明かしをすれば、私には在留資格の改正案に関する「腹案」があった。1974年から鋭意検討を重ね、長年温めてきた「在留資格制度改革試案」が私の手元にあったのだ。それを参考に日本の入国管理制度の根幹をなす在留資格制度の全面改正案要綱を短期間で書き上げることができた。

今から思うと、1990年の入管法の改正は、入管行政の歴史的転換点であったと言える。それまでの入管行政は、定住目的や就労目的の外国人の受け入れを極度に制限するものであった。1990年の入管法改正で在留資格制度を全面的に見直し、定住者の在留資格を新設するとともに、外国人が就労できる在留資格を大幅に増やした。1990年の入管法の改正に基づく在留資格制度の全面改正は、「移民」という言葉こそ使っていないが、実質的には移民国家への道の一里塚と位置づけられると私は考えている。

 

 

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