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移民政策一路の人生

35年の入管生活において何回も左遷を経験するなど、しんどいと思うことが多かった。荒海に舟をこぎ出し、荒波にもまれ、難航が続く公務員生活であった。在日韓国・朝鮮人の法的地位問題 (1975年)に始まり、中国人偽装難民事件(1989年)、フィリピン人人身売買事件(1995年)、日系ブラジル人問題(2000年)、北朝鮮残留日本人妻問題(2002年)、そして人口減少時代をみすえた移民政策の立案(2004年)など、出入国管理行政上の困難な課題に立ち向かった。以上のとおり、ミスター入管時代の私は難局を乗り切るため怖いもの知らずに突っ走った。

行政官時代、当面する最重要課題に先頭に立って取り組み、休まるひまがなかった。非難・罵倒・脅迫の集中砲火を浴び、心おだやかな時は少なかった。苦行難行が続くいばらの道を歩んだが、本業のかたわら論文を書くのが心の支えになった。『今後の出入国管理行政のあり方について』(1975年)、『在日韓国・朝鮮人政策論の展開』(1999年)、『日本の外国人政策の構想』(2001年)、『入管戦記』(2005年)などの移民政策関係の著作や、入管法のコメンタールを書き続けた。これらの一連の知的生産物が、のちに坂中移民政策論の骨格を形成するものに発展する。

ルーチンワークを終えた深夜、移民政策について思索にふけるのが何よりの楽しみであった。政策論文の執筆という精神安定剤を持っていたので、反坂中の空気が充満する世界で気が狂うことなく生きてこられたのだと思う。入管退職後は、論文の執筆に専念している。文筆に親しむ坂中英徳は老いてなおやる気満々である。

政策論文一筋の人生を振り返ると、特にタブーとされる難題とのたたかいの火ぶたを切るときには、行動を起こす前に問題提起と決意表明の文章を全国紙や雑誌に発表するのを常とした。公表することで政策の実行を国民と約束し、退路を断って政策の実現につとめた。

私の人生を一言で言えば、「坂中英徳の単数意見を国民の多数意見に変えることに努力した一生」といえる。「独創的な論文に始まり独創的な論文で終わる人生」と言い換えてもいい。

総じていえば、山あり谷ありの険しい職業人生を歩んだ。もっとも、人生のたそがれどきを迎えた今は、好きな知的生産活動を心ゆくまでやらせてもらう人生を楽しんでいる。移民革命家の思想・ 信条・表現の自由がパーフェクトに保障される時代とめぐりあった幸福をかみしめている。もし幕末の時代に生を受けていたら、開国派の理論的リーダーは過激な鎖国派から真っ先に殺されていたであろう。

ここで内閣官房と移民革命家の関係について触れておきたい。私はこの5年間、10冊を超える著書を内閣総理大臣官邸に謹呈し、著作を通して政府首脳と意思疎通を図るという関係を持ち続けている。国の将来を思う心の詰まった図書を政治家に贈呈したことが無意味であったとは思っていない。愛国の心がこもった著作が多少なりとも政治家の胸に響いたのではないかと推察する。

移民政策論文集が仲立ちする形で政府首脳と移民革命家との間のコミュニケーションがある程度進んだと理解している。少なくとも、あらゆる政策を動員して3000万人の人口減にとどめ、50年後も1億の人口を維持するという大きな国家目標では一致する。

以上のような見方が当たっているとすれば、「坂中英徳は政府黙認の下で大きな夢を追い求め、移民国家ビジョンを思いのまま語る至福の革命家」といえるのかもしれない。また、世界の識者の中には、「ミスターイミグレーション」「世界の救世主」と評価する向きもある。四面楚歌が常態の私は、このような幸運を独り占めするような晩年はまったくの想定外のことである。

すでに繰り返し述べたように、1975年の坂中論文から今日の移民国家ビジョンまで、私は耐えがたきを耐えて批判と罵倒が殺到する時代を生きてきた。したがって業績が評価される時代は私にとって未知の世界である。できればそういう場違いな時代と遭遇することなく死を迎えたいと思う。しかし、自分の思いどおりにはならないかもしれない。生生流転の人生は不遇な時ばかりではなく、ハッピーエンドで終えることもあるのだと考え直し、心しずかに余生を送ることができればそれでよしとしよう。