移民政策の最高の理解者が逝かれた――青木昌彦氏を追悼する

坂中提案

尊敬する青木昌彦先生が、2015年7月16日、亡くなられた。以下に追悼文を綴る。

私は生涯で二度、青木昌彦スタンフォード大学名誉教授の謦咳に接する機会に恵まれた。忘れもしない「2011年1月13日」と「2015年1月9日」である。

青木先生は2011年1月5日付の日本経済新聞の「経済教室」に「世代間の合意と『開国』を』と題する論文を寄稿された。拝読し、感銘を受けた。論文の中で青木名誉教授は、未知の人口成熟化社会(老齢化と少子化)に向かう日本の生きる道を示された。

〈日本が雁行の先頭として生み出す革新を武器として、グローバルに戦略的補完性を活用していくには、移民の規制緩和や環太平洋経済連携協定(TPP)の創生に積極的に関与するなど、自らの国を一層開く覚悟が必要だ。未知の領域に孤独に突き進む雁は、失速してしまう。〉

〈日本には、世代間の合意と一層の開国を先延ばしうる時間はもう限られている。それらの課題に本気で取り組み始めたときに、未知の領域に向けての飛行を先駆ける日本に、希望が取り戻せるだろう。〉

世代間の分断の危機をはらむ少子高齢化社会の国民統合に移民政策が不可欠と考えていた私は、青木昌彦先生は移民政策の同士であると思い、すぐ先生の事務所を訪ねた。

2011年1月13日、私が提唱している日本型移民政策について、論文を持参のうえ、青木先生と討論した。話がはずみ至福の時をすごした。そのうえあつかましくも先生に坂中移民政策論への支持をお願いした。

すると、青木先生から拙文について、「『日本型移民国家の理念』大変感銘を受けました。教育政策としても、農業政策としても、誠に示唆に富むと、広く世の中の人たちに広めるお手伝いができれば、と存じます」という望外の評価をいただいた。

当時、人口問題と移民政策に冷淡な日本の知的世界において四面楚歌の状況下にあった私は、日本を代表する碩学の評価を受けて、坂中移民国家構想はまちがっていないとの思いを強くした。自信を持って日本型移民国家の建設に突き進む決意を新たにした。

2014年10月、日本総合研究開発機構(NIRA)から、「青木昌彦先生がキャップを勤めるプロジェクトをNIRAが開始するのに際し、青木先生より、移民が日本のシステムにどのような影響を及ぼしうるかを考えるにあたり、坂中英徳移民政策研究所所長より、移民問題及び移民政策の在り方についてヒヤリングをさせていただきたいという要請があった」として、講演の依頼が私にあった。

2015年1月9日、青木先生ほか4人の大学教授らと「移民政策の在り方」の課題で討論した。全員が最新作・「新版 日本型移民国家への道」(東信堂刊)を読んでおられたので、主として青木先生の質問に私が答える形で議論が発展した。二人が真剣勝負をまじえた実のある「対談」だった。

講演を終えて日本総合研究開発機構の会議室から恵比寿駅までの帰り道を青木先生と歩いた。その時の先生の言葉を鮮明に覚えている。「坂中さんは相変わらず四面楚歌の状態ですね。青木リポートに坂中さんの移民政策を盛り込みます」。

日本が誇る世界的経済学者の突然の死で青木プロジェクトは未完に終わった。しかし、不肖ながら坂中英徳が青木昌彦先生の魂を継ぐので、青木先生の新しい国づくりの夢は永遠である。

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