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移民国家の最高峰を目ざして

1960年代の学生時代は学生運動が盛んな時代であったが、ノンポリの私は安定した生活を希望する普通の若者だった。それで国家公務員の仕事を選んだ。1970年4月のことである。

何が起きても不思議でないのが人生だ。誰も手を触れようとしなかった民族差別問題と取り組む公務員生活が待っていた。外国人の出入国管理を所掌する法務省入国管理局に就職した私の行政対象は、「在日朝鮮人」と「難民」と「移民」であった。すなわち社会のマイノリティの人たちの問題を担当することになった。

そして民族的少数者の処遇改善に関係する論文を幾つか書いた。行政官時代の晩年は、未踏の世界に足を踏み入れ、世界の常識をくつがえすような移民国家理論の創作に打ち込んだ。移民政策の理論的研究で業績をこつこつ積み上げたことがさらなる幸運につながった。

国家公務員生活を終えた2005年には、人口秩序の崩壊という一大危機にある祖国を再生させる仕事に出会った。移民政策の専門職の道を歩んできた私にとって、それは願ってもない天職であった。ボランティア活動として純粋な気持ちでそれと取り組んだ。それがよかった。大空を自由に飛翔できた。

専門分野が何であれ、職やポストが何であれ、移民国家百年の大計を提案することが一番むずかしいことに変わりない。長期的・世界的な視点から構想を練り上げ、説得力のある理論を打ち立てる必要がある。それゆえに、移民鎖国を続けることに何ら疑問を感じない政治家や、少数民族問題と格闘する気概のない政治家は、もともと移民国家の創建のような大業に取り組む気はない。とどのつまりは消去法の形で、在日朝鮮人問題に精通し、移民政策の立案をライフワークとする元国家公務員が、日本再生の主役をつとめることになった。今日まで残る最大のタブーとされる移民問題と真っ向勝負を挑む日本人は坂中英徳以外に存在しなかったということである。

さて、国の形を根本的に改める革命家の職にありついた私が稀に見る強運の持ち主であることについては疑問の余地がない。天運の働きがあって日本の絶体絶命のピンチを救う仕事に出会ったのだと思っている。ただし、自分の人生を客観的に振り返ることができる年齢になった今の私は、1200年以上続く禁忌を打ち破り、世界に類のない移民国家を創るという野心と、全国民を敵に回すような危険きわまる課題に挑む冒険家精神があったからこそ今の自分があるという考えが頭をよぎる時がある。

理性的に考えると、1975年の坂中論文から今日までの43年間、移民政策をテーマとする論文を愚直に書き続けてきたことが功を奏し、「移民革命の先導者」と呼ばれる今日の坂中英徳があるのだろう。すべて自分のなせる業であり、自分が立てた理論を実践した結果であるというのが、合理的な見方なのだろう。

単騎で難攻不落の城を攻め落とすようなことに挑戦する職業人生において山ほどのつらいことが押し寄せてきた。この世で地獄を見た。じつは、人間不信が高じ、いま死ねばどんなに気が楽かと思う時があった。しかし、死を意識する年齢に達した今は、天に生かされて移民開国という歴史的瞬間に立ち会う可能性が出てきたこと、坂中オリジナルの移民国家の理論が頂点をきわめる近所まできたことをしみじみと思い、心のやすらぎを覚える日が多くなった。

話は私事にわたるが、未完の半生を回想すると、晩年に至り「天命を知り天職に従事する」至福のひとときを経験させてもらった。移民政策の立案に当たってはマイノリティの立場に思いをいたし、一念岩をも通すという信念で初心をつらぬいた。今の私は、人生には勝ちも負けもないという心境に達し、プラスでもマイナスでもないゼロの精神で天命が尽きる日を待っている。

後世の人々には大変申し訳ないが、問題を提起しただけで手つかずの仕事を多く残して人生を終える。できもしないことに手を付けた無責任な人間という批判は喜んで受ける。弁解を許していただければ、人類共同体構想など世界の知識人の誰も取り上げなかった課題にチャレンジした論文は永遠の輝きを失わないだろう。私は22世紀の地球時代に生きる地球市民に夢の実現を託す。

職業人生を要約すると、はたすべき国家的課題が次々と押し寄せて来るもの、批判と罵倒の集中攻撃を一身で受け止めるもの、やり残した仕事がいっぱいあるものと言える。そのいっぽうで、大好きな移民政策研究に熱中し、やりたいと思うことを存分にやらせてもらった充実の人生であったと感慨にふける時がある。

この年になると、人生とは何が起きるわからない不可思議なものと思うようになる。自分の人生を自分の頭で筋道立てて説明するのは難しいのかもしれない。ただ一つ今の私が言えることは、「移民国家の最高峰を目ざして前人未踏の道を歩んだ人生に悔いなし」の一言に尽きる。