坂中論文を書いたことを誇りに思う

一つの論文が一人の国家公務員の一生を決めた。1975年の坂中論文を移民政策論の原点と位置づけ、移民政策理論の頂点を目指した。タブー視して誰も近づかない原野を開拓する道を突き進んだ。
しかし渾身の力を込めて書いた坂中論文は知識人からも政治家からも一顧もされなかった。千年来続く移民鎖国のイデオロギーを打ち破るため孤立無援の闘いが続いた。反坂中の空気が充満する中、移民政策一路の一匹狼が移民国家日本の道を造った。艱難辛苦の時代がエンドレスに続いたが、自分では天職に恵まれた充実の論文人生であったと思っている。
「移民1000万人構想」と「人類共同体ビジョン」の旗の下に日本を理想の移民社会へ導くため一本一本の論文を書くのに精魂を込めた。わかりやすい文章を書くことを常に心がけた。世界に通用する明晰な論理展開につとめた。結果、移民政策論文を駆使して世界の知的世界に打って出る地点にまで到達した。知友のテリー・E・マクドゥガルスタンフォード大学名誉教授を筆頭に海外の知性が驚いた『Japan as an Immigration Nation』(移民国家日本)の上梓である。外国の知識人の眼には、前人未到の人類共同体哲学を打ち立てた坂中英徳は「日本人離れの日本人」と映るようだ。
21世紀のいま現在は私の移民革命思想に共鳴する日本人は皆無に等しい。むろん政府の了解を得た国家ビジョンというわけではない。それどころか日本の知識人の一部から「危険な思想家」と恐れられている。しかし、100年後の移民総活躍時代には坂中ビジョンに共鳴する日本人が続出すると予感する。