坂中論文は幸運な星の下に生まれた

坂中提案

1971年。世界にはまだ、東からも西からも強烈なイデオロギーの風が吹いていた。

私が初めて入管行政に携わったのは、法務省に採用された翌年のことだった。その年の4月、25歳の私は、法務省大阪入国管理事務所で実務研修を受けることになった。

その頃、入管が担当する「出入国管理行政」というのは、ほぼ100パーセント在日韓国・朝鮮人を見据えたものであった。

私は大阪での審査体験を通して、在日韓国・朝鮮人問題の本質について、ひとつの結論を導き出した。

それは、日本で生活する在日韓国・朝鮮人の「実体」が限りなく日本人に近い存在であるのに、「法律上」(法的地位)は外国人として日本に存在している矛盾をいかにして解消するか、というものであった。

そして、できるだけ早く、在日韓国・朝鮮人の「法的地位」が「実体」と一致する存在、つまり日本国民となり、日本の出入国管理の対象でなくなる日がきてほしいと心から願うようになったのである。

しかし、当時は、差別を受けている在日韓国・朝鮮人やその民族団体側からはもちろん、行政の側からも、そういう考えはまったく取り合ってもらえないどころか、危険思想視され、どちらからも袋叩きにされるような時代だった。

ところが、めぐり合わせか偶然のいたずらか、私のこの願いを形にするチャンスが数年後に訪れたのだ。それは、1975年のことだった。

入国管理局が、「今後の出入国管理行政のあり方について」というテーマで職員から論文を募集した。この年、出入国管理行政発足25周年を迎えることを記念して行われた行事の一環だった。

この論文募集に私が応募したのは言うまでもない。そして、審査の結果、私の書いた論文が優秀作に選ばれた。記念論文の審査委員長を務めた竹村照雄氏(当時法務省入国管理局次長)の選評が私の手元にある。身に余る評価をいただいた。それによって私の進む道は決まった。以後、移民政策研究一筋の人生を歩むことになる。

〈第一部優秀作の坂中論文は、その視点において、その構想において、その論証において、まことに見事なものであり、「二十五周年記念」とするに全くふさわしい内容というべきであった。審査員全員が一致してこれを優秀作に推したのである。出入国管理行政を世界史的な変化発展の中で位置づけ、外国人の人権保障への明確な意識と国益との調和を目指して将来を展望し、しかもいたずらに理想に走ることなく、絶えず足下現実の問題に即し、これに立ち返りつつ議論を進める態度は、その考察の基礎となっている資料の豊富さとともに、力強く迫るものがあった。〉

もちろん論文には、大阪での実務研修で学んだ在日韓国・朝鮮人の実像を踏まえた新たな提言が盛り込まれていた。その論文の骨子は、「在日韓国・朝鮮人が、日本での生活を『仮の住まい』などと考えるような情けない日本ではいけない」というものだった。

そのためにまず手を打たなければならないのは、彼らの在留の安定を図ることである。つまり、在日韓国・朝鮮人に、法制面から「内国民待遇」に準ずるような法的地位を保障することが至上命題であると説いたのだ。

当時を振り返ると、私は運がよかったのだと思う。上司の中に竹村照雄氏のように高い見識と鋭い問題意識を持つ人物がいたのである。坂中論文は最高の行政官に見いだされて無事誕生した。しかし、その後は、順風満帆というわけではなかった。世間の猛烈な荒波にもまれる波瀾万丈の未来が待っていたのだ。

上司のすすめで論文が公にされるや、在日韓国・朝鮮人問題を考えるうえでの古典的文献と評価される一方で、20年近く研究者や活動家の間で賛否両論の激論が闘わされることになった。

坂中論文で述べた私の考えは、発表から39年がすぎようとしているいまも、基本的に変わっていない。論文で提案した政策提言は次々と実現した。残された最後の政策課題が移民国家の建設である。

年老いた私は坂中論文がたどった激動の運命を振り返ることがある。そして坂中論文とともに生きてきたことの幸せを感じる。幸運の星の下に生まれた坂中論文は役割をはたし、劇的な一生を終えようとしている。

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