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坂中論文の初心に返って大業に挑む

私の処女作にして代表作である坂中論文:『今後の出入国管理行政のあり方について』が生まれた1975年といえば、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結したのは、その年の4月30日だった。

朝鮮半島では、その前年「文世光事件」という奇怪な事件が起きている。当時22歳だった在日韓国人二世が、朴正熙韓国大統領を狙撃、暗殺は未遂に終わったが、陸英修夫人ほか二名が死亡した。

「金日成主席率いる北朝鮮によって、アメリカの傀儡政権でしかない韓国の朴軍事政権を倒し、朝鮮半島は統一されるべきだ」――70年安保はもはや過去の出来事となっていたが、大学キャンパスにはまだ学園闘争の残骸があり、そんな見方をする論客もかなりいたように思う。

左右のイデオロギーが激しくぶつかる「在日韓国・朝鮮人問題」という社会問題も、私が論じるよりもずっと適任と思われる学者や運動家がいたに違いない。

当時、法務省入国管理局には、連日、反入管運動の活動家たちが押しかけていた。実際問題として、そのようなエネルギーをまともに受ける覚悟を決めて、在日韓国・朝鮮人問題で発言することは容易ではなかったのである。まして入省5年目の当時の私は、入管行政に一歩足を踏み入れたばかりの青二才である。

私はそんな大騒ぎになるとはつゆしらず、真正面から「在日朝鮮人の処遇」の問題で論戦を挑んだのだ。

ただ、私が幸運だったのは、左右のイデオロギーの相克であるとか、在日コリアンをめぐるさまざまな政治・社会運動、さらには、日本人による在日朝鮮人批判は許さないという排他的な在日朝鮮人社会の空気や、本音を語ることをタブー視する風潮など、そういった夾雑物をいっさい排除した地平からこの問題を見通すことができたということではないだろうか。

在日韓国・朝鮮人の各グループや各運動体による「坂中論文」を使った勉強会がほうぼうで開催されているという話も聞こえてきた。論文の評価をめぐって激しい議論が闘わされたこともあったようだ。

しかし、歴史的な経緯から建前と本音がぐちゃぐちゃに入り混じってしまい、現実を直視できなくなった「在日」世界においては、議論こそ活発であっても、実効性のある具体的な政策提言など何ひとつ生産してこなかったのだ。そんな世界で、「坂中論文」は、突如、生まれたのである。

在日韓国・朝鮮人が幸福に暮らせる制度を確立すべきという見解は、何もイデオロギーの助けを借りなくても考えつくものなのだ。日本生まれで日本育ちの二世・三世の法的地位を不安定なままにしておいてよいはずがない。それを正すべしという考えは一般常識から導かれるものである。

当時の私が考えたこと、行ったことを顧みると、自分が見たままを言葉にし、感じたままを文字にしたのである。それは行政官の立場からという以前に、「普通の人間」の人間的な思いやりから生まれたアイディアを文章にしたものにすぎないように思う。

最前線で行政と向き合って敵対視していた活動家はともかく、日本社会の中で普通に日常生活を送っている在日韓国・朝鮮人は、日々、さまざまな不便や心ない差別といった障壁をなんとか改善してもらいたいという願いを持っていたに違いない。

私は、入管行政は「外国人」を相手にする仕事であるが、事のよしあしを決めるのは、結局、「外国人をひとりの人間としてどう見るのか」という人間観に帰着すると考えている。そして、私の論文を評価してくれた上司たちと私は、この「人間観」の部分で共通認識を持っていたのだと思っている。時代と人に恵まれなければ、ふとした感想を抱くだけで終わっていたかもしれない私の「在日韓国・朝鮮人社会への思い」は、まっすぐ提言へと向かい、さらに政策へと突き進むことができたのである。

あまりに多くの偶然と幸運に恵まれて、また、若さゆえの無鉄砲さもよい方向に働いて誕生した「坂中論文」は、時代にめぐりあったものと言えるのかもしれない。

さてその後、坂中論文は、行政組織としての入管にどのような影響を与えたのだろうか。
概して在日韓国・朝鮮人社会に対しては「敬して遠ざける」空気が支配的であった当時の入管においては、むろん、革命的な政策論を展開した「坂中論文」を積極的に受け入れる土壌などはなかったと認識している。だが、そうかといって、猛烈な反対の声が組織の中から上がるほど、それに反論することに熱心な人もいなかったのである。

そんな空気が醸成されると不思議なもので、組織全体としてあまり歓迎されない政策でも、積極的な反対の声が出てこないとなれば、それがいつのまにか独り歩きして政府の方針にまでなってしまうということもあるのだ。

つまり、「坂中論文」が示した政策転換は、入管の中では明らかに坂中英徳ひとりの意見であったにもかかわらず、声を出して具体的な政策を提案したがために、組織の中で消極的に肯定されたのである。

そして意外と早くその日が来た。1980年4月、法務省幹部から私に、「坂中論文で提言した政策の立法化」の特命が降りたのだ。私にとってそれは、いわば自作自演の形で国の政策を実現する機会が与えられたという意味を持つものであった。これ以上の名誉な仕事はないと意気に感じ、使命感に燃えて任務を全うした。話は法改正の技術的なことになるが、「出入国管理令」という法律の題名を変えるとともに、ふたつの法律でひとつの法律を改正するという離れ業を演じる経験もさせてもらった。

そして、坂中論文において提言した政策の多くが、1981年の第94回通常国会において全会一致で可決された「出入国管理令の一部を改正する法律」(法律第85号)と「難民の地位に関する条約等への加入に伴う出入国管理令その他関係法律の整備に関する法律」(法律第86号)として実を結んだ。その代表的な成果が、在日朝鮮人に安定した法的地位を保障する「特例永住許可制度」の確立である。この二つの法律は翌1982年に施行された。在日韓国・朝鮮人問題に詳しい大学教授が新しい入管体制を「1982年体制」と命名したことを覚えている。

以上、坂中論文で難問の在日韓国・朝鮮人問題を解決の方向に導いた時代を振り返った。坂中論文で提言した在日韓国・朝鮮人政策は坂中マジックともいうべき奇跡が起きてまたたくまに立法措置がとられたのである。

話は坂中論文が全盛だった昭和の時代から平成の時代に移る。問題はいま正念場を迎えた「坂中移民国家構想」を実現するため私がどういうスタンスで臨めばいいのかということである。坂中論文の遠大な理想を掲げ、かつ足下現実を踏まえて、機が熟するのを待って困難の問題と立ち向かう手法は、移民国家を創建する場合に参考とすべき点が多々あるのではないかと考えている。

付言すれば、朝鮮半島の植民地支配という在日に至る歴史的経緯と複雑な民族感情がからむ在日韓国・朝鮮人問題を円満解決に導いた歴史を鏡とすれば、私たち日本人は世界の最先端を行く移民国家を創ることができるというのが、在日コリアン問題の解決で主導的役割を果たした私の見解である。

以下は、在日コリアン問題の解決法を移民国家の建設に類推適用した場合の私の希望的シナリオである。移民政策における坂中マジックの再現を期待する。

〈若者を中心に国民の間から移民賛成の声が急激に高まり、政治家があまり乗り気でなかった移民国家構想が、人口危機が深まる日本を救う起死回生の策として独り歩きし、政府の基本方針に発展する。もともと移民国家ビジョンは坂中英徳の個人的見解にすぎなかったが、百年先を見通した実効性のある日本再建策をうち建てたことから、政府部内において最強の人口危機対策という評価が定まり、日本の未来を託する新国家ビジョンとして認知される。そして超党派の国会議員の賛成で移民法その他関係法律が制定される。世界のトップをゆく移民国家の誕生である。〉