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坂中論文が生まれた時代背景

1975年に書いた「在日朝鮮人の処遇」の表題の論文は、のちに「坂中論文」という通称で呼ばれ、在日韓国・朝鮮人問題を考えるうえでの「古典的」文献として研究者の間でも賛否両論を巻き起こすことになった。

1977年に発表すると同時に起きた反応としていまでも鮮明に覚えているのは、「入国管理局の坂中というやつはけしからん」という在日韓国・朝鮮人団体からの抗議だった。

法務省にまで押しかけた団体もあったが、抗議の内容はどれもこれも似たり寄ったりで、門切り型の印象しか残っていない。

 いわく、
「われわれには朝鮮民主主義人民共和国という立派な祖国があるのに、帰国の道を閉ざすつもりか」
「甘いエサをぶら下げて、日本に同化させようとしているのか」
「子供たちに、祖国を忘れさせるための罠だろう」
 と反発は想像以上に激しかった。

時代背景を知らなければ実感しにくいかもしれないが、冷戦時代のまっただなかであっただけに、日本と北朝鮮の間のイデオロギー対立は熾烈であった。彼らにとって「坂中論文」は、在日朝鮮人の消滅を狙った、日本政府が巧妙に仕掛けた陰謀と映ったに違いない。

在日朝鮮人の生き方としては、三つの選択肢がある。

ひとつは、日本で外国人として暮らすこと。ふたつ目が、日本国民になること。そして三つ目が、韓国・北朝鮮に帰ることだ。

私が論文のなかで主張したことは、このいずれの選択の場合であっても、その前にまず「法的地位の安定」が必要だということであった。しかし、論文のなかでは、ふたつ目の選択である「日本国民」になってもらうことを最大の目標として掲げていたことから、在日の団体からよからぬ「企み」と受け取られたのかもしれない。しかし、私は、「帰化の強制」を否定し、「彼らが自ら進んで日本国籍を取りたいという気持ちになるような社会環境を作るべきだ」と強調したのであったが。

非難はそれだけではない。入国管理局の内側にも、論文に対する違和感を抱く向きが見受けられたことは事実である。「坂中論文」は、在日韓国・朝鮮人に対する入管の従来の姿勢や見方を全面否定するものであったから、それは無理からぬことであった。

朝鮮半島情勢やイデオロギー、歴史認識が絡む在日韓国・朝鮮人問題は、入管という一役所の手に負えるものではないとして、誰も積極的に触ろうとはしなかった。在日外国人の窓口ということで、必要に迫られて接触はするものの、彼らのために制度まで変えようという発想もなければ、ましてやそれを行動に移す者など皆無といってもよかった。

彼らの直面する問題を把握している入国管理局でさえそんな状況であったのだから、ほかの省庁にあっては推して知るべしである。在日韓国・朝鮮人が生活上の不自由から解放されるためには関係省庁の理解と協力が不可欠であったが、他の省庁が在日コリアン社会に向ける目は、入管などとは比べものにならないほど冷たいものだった。

公営住宅への入居の拒否に始まり、公的金融機関はもちろん商業銀行でさえ在日韓国・朝鮮人に対する融資は行なわず、各種社会保障制度は適用されない。それらの改善を入管から各省庁に打診してみても、ことごとく消極的な回答が戻ってくるのが実情であった。

新しい出入国在留管理体制が発足するのにあたって44年前のことを振り返った。