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在日朝鮮人の少年との出会いが原点

 1970年に法務省に入った翌年の春、大阪入国管理事務所での実務研修で、日々、在留外国人に対して「在留資格」の取得や更新、「再入国の許可」といった申請を受理し審査する業務についた。当時の入管が担当していたのは、ほぼ100パーセント、在日韓国人・朝鮮人を対象にしたものであった。

 そんなある日、私の前にひとりの少年がやってきた。14歳の誕生日を迎えたばかりの彼は、その前日、両親から「おまえは “日本人” ではない」と告げられ、「在留」の手続きのため大阪入国管理事務所を訪ねてきたのである。彼はそれまで普通の日本人と何ら変わらない生活をしていて、自分が日本人でないなどと考えたこともなかった。

 同様の状況にある親の多くが、子どもが入管に出頭しなければならない前日になって切羽詰まり、やっと打ち明けている場合がほとんどであった。そのときわたしは、子どもを「日本人」として育てることを強いられるほどの在日コリアン差別の激しさを思い知り、強い憤りを感じた。その体験が私の入国管理に携わる行政官としての原風景になっている。

 その後、1975年に法務省入国管理局が募集していた「今後の出入国管理行政のあり方について」という論文公募に応じて、在日コリアンの処遇など今後の移民政策の基本方針について投稿したところ、優秀作に選ばれ、1977年には出版もした。

 在日コリアン当事者や研究者、活動家からも強い批判を受けたが、在日コリアンの法的地位の安定化や、難民の地位に関する条約への加入など、論文の政策提言の大半は、80年代初頭の入管法の改正で実現した。

 論文で述べた考えは、46年経った現在も基本的に変わっていない。100年後の日本と世界のあり方を視野にいれた射程距離の長い論文であったと自負している。