人身売買――「フィリピン・パブ」との最終戦争

坂中提案

これは、今から13年前の2004年の話である。当時、外国から「芸能人」としては入ってくるショーダンサー、ショーシンガーは年間約13万人(そのうちフィリピン人は8万人)。彼女たちの出演先とされるバーやクラブ、パブが日本全国で約1万店。そして、彼女たちの受け入れを行っているプロモーターが所属するプロダクションは約1000社。

これだけでも大きな市場であることは分かるが、さらにその背後で組織暴力団が、不法行為から上がる莫大な不当利益を得ていた。以上が、私が闘った無法地帯の概要である。

2004年7月、東京入国管理局長だった私は、東京入国管理局内に、国境を越えた女性の人身売買防止策の一環として、「興行」の資格で入国した外国人女性の追跡調査チームを発足させた。フィリピン・パブとの10年戦争の決着をつけるべき時がきたと内心思っていた。

「興行」問題に精通する入国審査官・入国警備官で構成された専従チームが「興行」入国者たちのあとを追い、パブ、クラブ、スナック、バーなど「出演先」とされる場所をしらみつぶしに調査する方針を決めた。

そして2004年には、120店舗に対して入国審査官による立ち入り調査を行った。また、資格外活動が行われていることが明らかになった「出演先」のうち、売春の強要が行われているなど特に悪質と考えられた17店舗に対しては、裁判所の捜索令状を得て入国警備官による摘発に踏み切った。われわれが摘発のターゲットにするような店舗では、そもそもショーと呼べるような演目は皆無で、最初からホステスとして迎え入れているし、違反調査の結果、管理売春に近い行為が日常的に行われている状況も確認されている。

摘発に際し、私もいくつかの現場に足を運び、事の成り行きを間近で見守った。一例を挙げよう。

集合は夜の10時。そこから現場に向かった。摘発は、東京入管の入国警備官20名、応援を要請した警察官が15名という布陣だった。

入国警備官たちがいっせいに店内に踏み込むと、店の雰囲気は一変する。騒々しい足音と短い悲鳴が所々で上がり、店に流れていた大音量のBGMは消え、代わりに張り詰めた沈黙が支配する。 外国人のホステスたちは、ソファのあちこちに小さなグループを作って固まり、息をひそめている。そのような空気のなか、入国警備官の指示する声が響き渡る。

店内で収捕されたフィリピンの若い女性たちは、入管に捕まって「さぞ落胆しているだろう」と思われがちだが、実際はそうではない。むしろほっとしている女性のほうが多いくらいだ。というのも、もともと風俗店で働くフィリピン女性からの助けを求める「SOSの通報」にこたえてその店を摘発するケースが圧倒的に多いからだ。

店内にある奥の控室に入ると、すぐ、彼女たちがけっしてホステス業を楽しんでいたわけではないことを示すものが私の目に飛び込んできた。それは、出勤簿のようなもので、勤務の中身が項目別に数値化されていた。項目のところには〈DOUHAN〉とか〈TENGAI〉と書かれてあった。その表から「客との同伴」や「客との店外デート」の実績を競わせていたことが一目で分かった。

入管法により退去強制の処分を受ける彼女たちは、一概に悲壮な様子というわけではない。嫌でたまらなかった強制「同伴」と「店外デート」から解放されるからなのか、喜んで帰国する者もかなり見受けられた。

退去の手続きを行っている現場で、もうすぐ祖国に帰って家族に会えるという喜びで表情を緩めている彼女たちを見ると、私は救われた気分になった。

東京入管が総力を挙げて外国人の人身売買問題に取り組んだ努力が実った。これを受けて政府が動いた。

2005年の通常国会において「人身売買罪」を新設する刑法の改正と、人身売買被害者を保護する入管法の改正を行うための「刑法等の一部を改正する法律」が成立した。

ここにようやく、入国管理局と「興行」プロモーター業界との間に繰り広げられてきた全面戦争が終結を迎えることになった。この問題の現場責任者として業界との真っ向勝負を挑んだ私にとって感慨深いものがあった。

もし「人身売買天国」という不名誉なレッテルを国際社会から貼られた日本のままであったなら、元東京入国管理局長の坂中英徳に移民国家の建設を語る資格はないと世界から指弾されたであろう。もちろん「ミスターイミグレーション」と世界のメディアから呼ばれる今の私もなかった。

 

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