人生意気に感ず

坂中提案

わたしは1975年の在日朝鮮人政策の立案をもって移民政策論の嚆矢とし、それから今日までの40年間、移民政策の立案とその実践の道を歩んだ。誰もが恐れをなしてさわろうとしなかった移民鎖国体制の打破と、日本独自の移民国家像の創作に挑んだ。四面楚歌と一人旅が続く中、自らを叱咤激励して移民国家の根本原理の究明に心血を注いだ。

移民政策一本の道を思い起こすと、政策論文を書き続けることの精神的苦痛は大変なものだったの一言に尽きる。政策の実現に捨て身で立ち向かったときのことは鮮明に記憶している。だが、政策が実現したときの達成感を覚えたことは一度もない。また、学会、政界などから業績が評価されたこともない。よく精神の異状をきたさなかったものだと思う。30の時に世間の物議を引き起こす政策論文を発表し、あまたの非難と罵倒を受け、何物も恐れない、社会の評価など気にしない、不撓不屈の精神が形成されたのだろう。

いま、私の人生において1975年の坂中論文以来40年ぶりにゆったりした気分にひたっている。駆け出しの行政官のときにまるで神業のような移民政策論文を書いたことによる責任の重圧から解放されて心が落ち着いたのだろう。

坂中論文で公言した政策提言の大半が現実のものとなった。世界のトップレベルをゆく移民国家の理論的基礎を築いた。日本の人口危機を救う坂中構想の理解者が飛躍的にふえた。そのような新局面を迎えて安心立命の境地に達したのだろう。

自分の実力以上の業績をあげたと思うが、精魂を込めて事に当たれば一念天に通ずるということがあるのだろう。にっちもさっちも行かない困難な状態に追い込まれたときに天が助けてくれた。難局を脱する奇跡が起きて局面が開けた。

運と奇跡が頼りの無鉄砲な冒険家のような職業人生が尋常なものでないことは自分でもわかっている。綱渡りの連続の役人生活をすごした。行政官の晩年の地方局長時代には、「坂中英徳は1週間以内に交通事故に遇う」「坂中局長は年金がもらえるかな」と脅迫された。「命あっての物種」と、法務省の幹部から言われた。「坂中さんは不器用な生き方を貫いた侍」と、親しい後輩が慰めてくれたのを覚えている。

親の背中を見て育った息子は、「お父さんはできもしない無謀なことを道楽でやっている」と言い放つ。身近で見ていると、見果てぬ夢を追いかけて楽しんでいるようにうつるのかもしれない。自分では現実に即して物事を考えるリアリストだと思うが、私の論文を読んだ友人たちはみな坂中はロマンチストだという。

私の著作物の多くは、政策論文という性質上、ロマンチストの面とリアリストの面のふたつの要素が合体して成立したものである。ロマンチストとして百年先を見通したユートピア計画を立て、リアリストの目で現実を直視し、広い視点から当面する問題の解決策を示した。学者の書いたものと比べると、長期的・理想的に物事をとらえる傾向が強いことを認めるにやぶさかではない。

タブーとの闘争に明け暮れる職業人生だったが、無人の荒野を一人で突き進み、自分の信ずる道を貫いた。単騎で戦いに挑んだが、最終的には時勢の助けもあって政策提言の大部分が実現した。これからも厳しい試練にさらされると思うが、国歩艱難の折に遇った稀有の経験と筋書きのないドラマが詰まった半生に満足している。

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