中国人偽装難民事件を解決した

坂中提案

私は、2〇〇5年3月に法務省入国管理局を退職するまでの35年間、一貫して出入国管理行政畑を歩んできた。

最初の20年近くは、もっぱら在日韓国・朝鮮人問題にかかわった。後半の17年ほどは、不法入国・不法就労をくわだてる中国人に対する出入国管理に全力を傾けた。特に、1988年11月に発生した「上海事件」と呼ばれる中国人就学生問題と、翌年に起きた「中国人偽装難民事件」には、実務の責任者として問題の解決にあたった。

上海事件は、3万8000人の中国人が就学ビザの発給を求めて在上海日本国総領事館に押しかけた事件である。彼らは日本語学校で勉強する目的で入国申請をしていたものの、本当の入国目的は就労にあった。この事件に私ども入管は驚いた。中国人の「出稼ぎ熱」がすさまじいものであることを世間に知らしめた大事件であった。

私は、法務省入国管理局の総括補佐官としてこの事件に深くかかわり、「デタラメをやった日本語学校を、全部、処分するしかない!」と決断した。その結果、3万8000件の査証発給申請の大半が不許可になった。

この決定に対しては、日本語学校関係者から抗議が殺到しただけでなく、外務省の大使や親中国派の政治家からも「日中友好のため少なくとも2万人は許可すべきだ」と批判された。中国政府も「中日友好のため学生の受け入れを」と強く迫ってきた。

しかし私は、「受け入れ態勢が整っていない日本語学校がどうやって3万8000人もの学生を受け入れられるのか」と反論し、「そんなのは本当の日中友好じゃない。将来の日中関係に禍根を残す」と要求を拒絶した。

残念なのは、上海事件が発生した時点ですでに2万8000人の中国人就学生が入国していて、そのうち約半分が不法滞在者となったことだ。その中から、その後、「蛇頭」(密航ブローカー)となった者もいれば、マフィア化して「外国人犯罪」の主役となった者もいる。

翌1989年に起きた中国人偽装難民事件。2800人の中国人がベトナム難民を装って日本の領海に入ってきた事件である。この事件についても、私は陣頭に立って、問題の解決に当たった。

難民船で九州各地に次々と到着する人たちを、入管は当初ベトナム難民であると疑いもせず上陸を許可し、カトリック教会などに収容していた。

ところが、たまたま横浜の日本語学校に在学中の中国人女性が「難民船で漂着した夫を捜してほしい」と名乗り出た。長崎県のカトリック教会に保護されていた夫と対面させると、夫はれっきとした中国人であった。そこから、日本に入国したボートピープルはすべてベトナム難民を偽装した中国人であることが発覚した。それ以後やってきたボートピープルも、すべて中国人だと判明した。入管はこの事件に組織を挙げて取り組んだ。二人の職員を過労で失うという不幸があったが、2800人の中国人すべてを強制退去手続により中国へ送還した。

上海事件と中国人偽装難民事件をほとんどパーフェクトに解決し、国境線を守り抜いた実務経験は、法務省入国管理局の職員の心に深く刻まれたにちがいないと推察する。それは入管職員の大きな自信につながったと思う。また、その実績が評価され、それを契機に入管は飛躍的発展を遂げる。

中国人がベトナム難民と名乗って日本列島に続々押し寄せて来る偽装難民事件について、各メディアが連日トップニュースで入管の活躍を報道したので、それまで弱小で無名の政府機関であった入管の存在が広く世間に知られるようになった。それ以後、入管の組織・人員を含む入国管理体制の充実・強化が急ピッチで進められることになった。

たとえ将来中国から大量の不法移民が押し寄せて来る事態が発生したとしても、修羅場を潜り抜けて大きく成長した入国管理の精鋭部隊は、中国人不法移民問題に対して的確に対処すると確信している。

私の入管時代の信条は、日本人の「外国人」観を悪化させないように、取り締まるべき外国人犯罪に対しては徹底して取り締まり、日本に来てほしい外国人に対してはきちんと門戸を開くというものだった。入管を退職した今もその基本的な考えに何ら変わりない。

 

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