『坂中論文』(1975年)

処女作の『今後の出入国管理行政のあり方について』(1975年執筆)において「在日朝鮮人の処遇」など移民政策の基本方針を提案したことがきっかけとなって移民政策の立案をライフワークとする道を選んだ。迷うことなく直観で決めた。それ以後、初心を貫き、日本の移民政策を牽引する論文を大量に生産した。
無我夢中で努力したかいがあって移民政策研究の第一人者と認められ、気がつくと人口崩壊が迫る日本を革命的な移民政策で救う責任を一身に背負う立場になっていた。近年は、世界の識者から「移民革命の先導者」や「ミスターイミグレーション」の名で呼ばれている。私の一生を野球人生にたとえれば、移民国家を打ち建てるため全試合に出て全力投球するものであったと言える。
話は1975年に戻る。法務省入国管理局が、「今後の出入国管理行政のあり方について」という課題で、入管職員から論文を募集した。この論文募集で私の書いた論文が優秀作に選ばれた。論文の審査委員長を務めた竹村照雄氏 ( 当時法務省入国管理局次長 ) の選評が私の手元にある。
〈第一部優秀作の坂中論文は、その視点において、その構想において、その論証において、まことに見事なものであり、『二十五周年記念』とするに全くふさわしい内容というべきであった。 審査員全員が一致してこれを優秀作に推したのである。出入国管理行政を世界史な変化発展の中で位置づけ、外国人の人権保障への明確な意識と国益との調和をめざして将来を展望し、しかもいたずらに理想に走ることなく、絶えず足下現実の問題に即し、これに立ち返りつつ議論を進める態度は、その考察の基礎となっている資料の豊富さとともに、力強く迫るものがあった。〉
坂中論文は見識のある行政官に見いだされてうぶ声を上げた。しかし、その後は、世間の猛烈な荒波にもまれる未来が待っていた。
1977年、竹村照雄氏のすすめで論文が公にされるや、在日韓国・朝鮮人問題を考える際の古典的論文と評価される一方で、20年近く研究者や活動家の間で賛否両論の激論が闘わされた。
坂中論文で述べた私の考えは、45年後の今も基本的に変わっていない。もっとも、坂中論文を執筆するに当たって移民国家をつくるという野心を抱いていたわけではない。しかし、期せずして100年後の日本と世界のあり方を視野に入れた雄渾な移民政策論文に仕上がった。そして、在日コリアンの法的地位の安定化や、難民の地位に関する条約への加入など、論文で提案した政策提言の大半が実現した。残された課題が世界に冠たる移民国家の創建だ。近年、移民の受け入れに賛成の若者が急増するなど移民立国をめぐる情勢が急展開したことに鑑みると、これも大願がかなう可能性が出てきた。
さて、坂中論文を書いた当時を振り返ると、一時期、私は40代の役人に見られていた。入管のそとの世界では、「論文を書いたのは法務省の参事官」で通っていた。実際は、1975年当時、 国家公務員になって5年目の、まだ学生気分が抜けきれない若輩の入管職員であった。
時代は移って2000年代の初頭。朝日新聞の記者から、「伝説の坂中論文を書いた人はまだ生きておられるのですね」と、驚きの目で見られた。10年ほど前、高名なジャーナリストから、「坂中さんは相変わらず1000万人の移民を主張しておられるのですね」という失礼な質問を受けた。75になったが、坂中英徳は健在である。「坂中論文の坂中」の昔の名前は返上し、これからは「移民1000万人の坂中」の名前で一花咲かせるか。
畢生の大事業が大詰めの段階を迎え、坂中論文がたどった歴史を回想することが多い。移民政策一本のまっすぐの生き方を貫き、坂中論文と共に移民国家への道を切り開いた人生の幸福をかみしめている。いま、坂中論文は波乱万丈の一生を終えようとしている。あるいは、射程距離が長いこの論文は著者の死後も輝きを失っていないかもしれない。
もしかすると、日本を理想の移民国家へと導いた先駆的な論文として移民国家の歴史に刻まれるかもしれない。