「重要なのは血統か、文化か?」、投稿者:40代男性、横浜市在住

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 私が、多文化社会・カナダに4年間暮らして痛感したことは、「人間は文化によって作られる」という事実であった。たとえ、血統的には日本人の血を引いていても、カナダ社会に生まれ育ち、現地の主流の文化に染まった人たちは、もはや「日本人」とはいいがたい、縁遠い存在であった。逆に、肌の色が白かろうが黒かろうが、日本で生まれ育った人たちのほうがずっと話やすく打ち解けやすかった。
 つまり社会にとって、重要なのは、血統ではないのだ。文化という一つの社会の価値観の体系をいかに受け継ぎ広めていくか、ということなのだ。
 文化的遺伝子(ミーム)という言葉がある。生身の人間は、遺伝子の乗り物にすぎないように、社会にとって最重要なものは文化的遺伝子であり、その乗り物にすぎない生身の人間=血統ではない。
 日本の人口は、2060年には、現在と比較して30%も減少すると予測されている。日本の文化の担い手がこのように大幅に減少する状況下では、日本文化の伝承も危機にさらされると考えざるをえない。そのためには、日本人の出生率向上だけでは足りず、移民導入を真剣に考えるべき時に達している。
 その際、重要なのは、日本社会としては、この日本文化、日本的精神、あるいは大和魂というものを、移民としてやってくる外国人の方々に受け継いで、次世代の日本文化の担い手として、参加していただくという姿勢である。
 肌や瞳がさまざまな色をした日本人がいてもよいではないか。古代から綿々と続く万世一系の天皇の下で、他国に類を見ない政治的安定性をもって、安らかに人々が暮らしてきた日本。天皇の下にいる平民が、1850年代の開国以前に日本にいた人々の子孫だけで構成されなければならない、というきまりはないだろう。当然、世界の様々な国からやってきて、日本文化を受け入れた人たちから構成されていても何の不都合もない。
 外国人が日本に長期にわたって住み着くこと(=移民)に対して、異様なまでに恐怖心を抱く人々がいる。彼らは、いにしえから受け継いだ日本の良風美俗が乱されると信じて疑わないようだ。だが、日本文化はかように脆く、か弱いものだろうか?2000年に渡り培われてきた日本文化の力をもっと強く深く信じるべきではないのか。
 外国人に対して一様に敵対視するのではなく、日本社会の秩序を破壊しようとする者たちのみを徹底的に排除すればいいだけではないか。
 なぜならば、外国人はそれ自体は本質的に善でも悪でもなく、善なる外国人の力を借りて、日本社会を発展させ、また、悪をなす外国人を罰し、国外追放すればよいだけのことだからだ。
 ここで、重要なのは、高い能力と日本文化への愛着をもつ外国人をいかに引きつけるか、ということである。
 日本での定住を目指す外国人たちを「将来の日本文化の担い手」として、相応しい待遇で迎え入れる必要がある。
 そのためには、現代の奴隷制度として悪名高い「技能実習制度」を廃止することはもちろん、優秀で素行善良な外国人には、速やかに安定した法的地位=永住権を与えるべきである。また、日本の社会と伝統に対して、さらに深く関与したいと希望する外国人に対しては、国籍(市民権)を付与することをためらうべきではないし、その過程を促進するために、重国籍も認めていくべきであろう。
 こうした制度設計をする際に重要なのは、単に自然法=人権的な視点のみならず、「日本の国益をいかに担保するか」という視点である。
 法的安定性とは、第一に既得権の保護であり、「日本列島に古代から定住してきた人々の利益(=国益)」が、まず最初に保護されるべきことは、論を俟たない。
 国民の利害を尊重しない移民政策は、いずれは国民の反発を招き、持続可能性に欠けるであろう。
 だが、注目すべきは、その「国益」の中身自体が、長い時間を経て、変化しうるということである。
 日本国民が、世界各地の出身者から構成されるようになったあかつきには、日本は世界の国々と深い関わりを持ち、世界と日本の利害が重なりあっていくだろう。
 このように「国益」そのものが世界に広く開かれたものに変化していくことで、日本は、ますます世界平和を愛する懐の深い社会へと成長を遂げていくのである。
 結局のところ、日本にとっての究極の「国益」とはすなわち、血統にこだわらず、広く人材を世界から迎え入れ、この日本文化=日本らしさを維持発展させつつ、後世に受け継いでいくことではないだろうか。そして、こうした世界各地出身の「新・日本人」を通じて、日本文化の良い部分を世界に伝え、世界の発展に寄与することではないだろうか。

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