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「多文化共生」から「多民族共生」へ

外国人の受け入れのあり方を論じる場合、観念論者の学者は「多文化共生」という言葉を好んで使う。「民族」というリアリティのある言葉は絶対に使わない。いっぽう、現実論者の私は在日韓国・朝鮮人政策および移民政策を論じる場合、「多民族共生」という外国人社会に根付いた言葉を専ら使ってきた。「多文化共生」という抽象的な用語をもってしては、生身の人間であるマイノリティの本質を的確に捉えられないからだ。私は、「民族とは共通の言語・文化・意識を持つ人の集まり」と理解する。

「文化」とは何か。学問的には、「文化とは、その人間集団の構成員に共通する価値観を反映した精神活動のすべて」と定義される。政治・経済・軍事・技術などと対比して「精神文化」という言葉が使われることもある。具体的には「宗教・言語・芸術・生活様式」がその中心的概念とされる。

さて、外国人の受け入れとの関係で言えば、「外国人の持つ宗教心と日本人の持つ宗教心の共生」とは一体何を意味するのか、古い考えの持ち主の私にはよくわからない。有史以来、世界の諸民族は主として宗教の違いに基づく戦争を繰り返してきたが、それをどう理解すればいいのか。「日本語を母語とする日本人と、それとは異なる言語を母語とする外国人の共生社会」とは、どういう社会なのか。実際問題として百の言語が流通する社会をつくるということなのか。それとも「単一の言語」すなわち主要民族が話す日本語のみが原則通用する社会に向かうということなのか。

さらに言えば、「一つの宗教」と「一つの言語」でまとまる世界が望ましいのか。それとも多様な宗教や言語が共存共栄する人類社会のほうが望ましいのか。それは人類の永遠の課題と言うべき問題でもある。

1970年代の私は、在日朝鮮人政策を論じる場合、「文化は日本人とそれほど変わらないが、民族は全く異なる在日朝鮮人の実体」に迫った。当時も今も、「外国人と日本人の共生」についてはリアルにその姿・形を描くことができる。しかし、「外国文化と日本文化の共生」については具体的なイメージが浮かばない。

なお、最近、EUの移民政策をリードしてきたメルケルドイツ首相が「多文化共生」を強調したのは失敗であったと述べていた。ヨーロッパでは「社会統合」という概念が主流になった。「多文化共生」という概念ははやらなくなった。